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第6回現代日本彫刻展
彫刻のモニュマン性とはどういうことをいっているのか

著者名:土方 定一


  今回の第6回現代日本彫刻展のテーマは、彫刻のモニュマン性というテーマになっています。このモニュマン性とは、どういうことをいっているのかと、専門家は別として、ときに一般の方から質問をうけます。

  宇部市常盤公園内野外彫刻美術館の現代日本彫刻展は、第3回を「三つの素材による現代彫刻-ステンレス・アルミニウム・プラスチックス」というテーマで開催し、第4回を「強化プラスチックスによる」というテーマで開催しています。これらは、近代工業技術の開発した現代の新しい材料であることはいうまでもないことです。これらの新しい現代の材料が現代の彫刻家の想像力と一致した材料となっており、現代日本彫刻展はこれらの材料をテーマとして制作し、それを常盤公園の野外に展示することで、これらの材料のもっているさまざまな彫刻的な可能性を実験し、現代彫刻の多様性を発見しようとしたのが意図でありました。

  現代の世界彫刻は、しばしば「金属彫刻の時代」といわれております。金属といっても、ブロンズ、鉄、スティール、アルミニウムなど、その他、現代の工業技術を性格づけるさまざまな材料であります。もっとも、これらの材料のうち鉄などは、歴史的には人類が農耕社会に入る時期からの金属であり、その後、ときに彫刻作品の材料となっており、ブロンズは、これまでの彫刻作品の鋳造材料となっていることはいうまでもありません。が、この鉄が20世紀の彫刻のなかに新しい機能をもって現われたのは、たとえば、ゴンザレス(1876-1942年)の刺戟で鉄彫刻を創作しはじめたピカソの鉄彫刻などでしょう。もっとも、現代彫刻の鉄彫刻は、ゴンザレスと同じように、同国のピカソの親しい友人であったパブロ・ガルガロ(1881-1834年)が1911年にすでに制作していたとのことです。ゴンザレスが錬鉄(熟鉄)のカタロニアの伝統をもつ鍛冶工の子として生れているのも興味あることで、現代日本の若い工芸作品を見ていて、まれにこの作家が置物工芸でなく、彫刻家的な展開をしてほしいと思う作家に会うことがあります。ゴンザレスはこの伝統的技術をキュビスムの思考の影響をうけて「天使」(1933年、錬鉄、パリ近代美術館)のようなユーモアにみちた抽象作品、また「スペインの農婦」(アムステルダム市立美術館)にみられるように、鉄板で構成した、具象的でカ強い農婦像を創作しています。ゴンザレスの作品のほとんどはパリ近代美術館のなかに、ブランクーシェ(1876-1957年)と並んで記念室が設けられ、その全貌を見ることができます。鉄がもつ清潔できびしい材質感と、この作家の同様に清潔できぴしい想像カとが一致しながら、現代彫刻のひとつの方向を指示している感があります。

  また、たとえば、ナウム・ガボ(1890-)の作品「シカゴ水泳プールのためのコンストラクション」(1932年)の材料が金属とガラス、「無名の政治囚のための記念のためのモデル」の材料が針金とプラスチックスであり、またモホリー・ナギー(1895-1946年)のように、プレキシガラスの外にさまざまな材料を使っており、これらの例をこれ以上、挙げるに及ばないようです。

  石、木、ブロンズ、鉄の外に、近代工業の開発するさまざまな材料を彫刻の素材とした20世紀前半の巨匠のすぐれた例は以上のようですが、戦後の現代彫刻は、これまでの材料の外に、さまざまな材料を使って作家の思想が生む想像力を構成しています。それでは、それらのさまざまな材料を使った作品のもつモニュマン性とはどういう性格を指しているのであろうかが問題となります。

 
  モニュマンは、いうまでもなくmonumentで、monere(思いださせる)からきたラテン語ではmonumentumであり、ある個人(あるいは、人々)、ある事件、ある観念の記憶を永遠化する役目をするものを指しています。芸術作品の一定の類型、たとえば、墓所作成者、広大で壮麗な墓、公共的な布告のきざまれた石板とか金属板、凱旋柱や凱旋門、個人を称揚するために捧げられ贈られた名誉ある彫像や建築物などは、明らかに、その作品を作った側の記念的な意図が現われています。モニュマンの一層、一般的な意味では、しぱしば、過去の時期、たとえぱ、その記録的な意味とか芸術上の価値に対して、後の時代になって人間、事件、文化と文明の記念として考えられるようになっています。これは、その本来の目的とは関係なくともかまわないことです。ですから、モニュマンの考えの基礎となる記念的な性格は、初めから、解釈からきたものか、協議されたものが目的となっています。......社会の要求と能カとによって、そこに製作されたモニュマンは僅かな価値しかないか、全く芸術的価値のないものとなります。また、才能ある建築家、彫刻家、職人のきわめて立派な達成を現わすこともあります。

  以上は Encyclopedia of World Art の Monumentの項のはじめを抄訳したものであります。最後の言葉は、われわれの現代社会のことを考えると、なかなか痛い警告のように聞えるではありませんか。それはともかく、この辞典の筆者は歴史的に、先史時代のメンヒルから古代エジプト、ヨーロッバの各時期、またインド、中国のモニュマンの形式と内容とを紹介していますが、その場合に、モニュマンは記念的な建築、彫刻という意味であり、彫刻的なものに限っていえば、記念碑とか銅像ということになります。

  近代彫刻史のうえでも、ロダンの「カレーの市民」(1884-1895年)、「バルザック像」(1895-1898)、ブールデルの「アルベアル将軍の騎馬像」(1923年)のように、その名称からしてすでに記億を永遠化する記念像がこれらの巨匠によってつくられています。また、同じく記念像といってもマイヨールの「ポール・セザンヌ記念像」(1912-1925年。チュイルリー公園)は横たわっている裸婦が手に花を持つ像であり、ピカソの戦争の観念に対して平和の人間像を制作した「羊をもつ男」(1944年、アンティーヴ市)となると、記念像は、われわれのいう銅像の考えから離れ、さらに「モニュマンのための彫刻設計(女の像)」(1928年)となると具象という考えから離れてしまっています。さらにナウム・ガボの「ビーエンコルフ百貨店のための構成」(1954-1959年、ロッテルダム)となると、都市、建築との一致を示しながら、都市のひとつのシンボルのような記念像となっています、そして、すでにマイヨールの「ポール・セザンヌ記念像」、その他の例にみられるように、もはや個人の記念像(銅像)に対する考えは特殊の場合、あるいは、ソヴェートにおけるような例を除いて、なくなり、というより拒否されています。このことは、われわれの世界観、また美に対する考えの変化、近代建築の考えか反モニュマンの意識となっていることなどと関係しています。

  ここ宇部市でも、故星出寿雄市長のための記念として佐藤忠良さんの子供像が台座のうえに置かれ、その前庭か芝生となった小さいが、いい、モニュマンのある広場となっています。これは星出市長が生前に佐藤忠良さんの作品を愛されたために同氏の子供像か置かれた事情がありますが、このような記念像のある広場は、ぼくには美わしい宇部市の企劃と思われます。このような例は最近、日本の都市のなかに現われはじめた美わしい例証といっていいでしょう。

  このような新しいモニュマンは、もはや個人の「記念を永遠化するため」の故人の胸像を制作するのではなく、われわれの社会生活のなかを愉しくする共同の精神の現われであり、それと同時に、星出市長の人柄を却って美わしくすることになります。そして、現代のモニュマンはわれわれの社会生活のなかに愉しいものを加え、さらにわれわれの精神をいまひとつの別の次元につれてゆくことができれば、一層、そのモニュマンは生きることになります。

  現代のモニュマンは、いわゆる具象、また抽象作品、立体作品のいかんを問わず、以上の方向にあるといっていいでしょう。だが、その意図はあっても、どのような作品もモニュマン性をもつといえないことはいうまでもないことです。意図としてのモニュマンと、その制作がいい作品であるか、よくない作品であるかは社会によって問われることになります。ここに現代のモニュマン性(monumentarity)という日本語に訳すのに困難な言葉が使われることになります。

  ヘンリー・ムアはあるところで、このモニュメンタリティについて、1971年、ミュンヒェンで開催された「ヘンリー・ムア」展に際して、ウォルフガング・フィッシャーの質問に対して、次のように答えています。

  「形が大きいということが彫刻作品にモニュメンタリティを与えない。僅か数インチの小さな作品でもモニュメンタリティの感覚を持つことができる。わたしはモニュメンタリティの質はほんの僅かな芸術家の作品のなかに見出される、まれな質であると思っている。わたしはミケランジェロのうちに、マサッチオのうちに、リューベンスのうちに、セザンヌのうちにこの質カが見出される。ブーシェとかフラゴナール、わたしが賞讃するその他の多くの作家には見られない。......わたしは「水浴する人々」のための油彩のスケッチであるが、セザンヌの小品を持っている。これはわたしの自慢のものだ。わたしがこの絵をはじめて見たのは45年ほど前のことで幻燈のスライドでスクリーンにうつされ、10フィートから12フィートに拡大されていたある講義に出席していたときであった。10年前に、わたしはその実物を見たが、そのとき8インチと10インチの大きさなのを知って驚いてしまった。というのは、それはフィラデルフィアにあるセザンヌの二つの偉大な作品、「水浴する人々」と全く同じモニュメンタリティを持っていた(他のひとつはロンドン、ナショナル・ギャラリーにある)。

WF わかりました。が、この場合、モニュメンタリティは様式的な質のように思われますが。

HM いや、ちがう。というのは、あなたは様式を教えることはできるが、モニュメンタリティはある芸術家のヴィジョンの生れつきの部分だ。だから、教えることができない。それは巨大に大きい作品を意味しない。現代イタリアの画家モランディのような作家の小さな静物画のなかに、こういう感覚をもっている。モランディの描く壷は風景のなかの巨大な塔のように見える。ある芸術家が事物を変える仕方は、こういう風である。......もちろん、大きさを必要としない芸術家もいる。近代芸術のひとつの例を挙げれば、パウル・クレーである。クレーの想像力ある、詩的な小さな素猫は、たとえ10倍の大きさにしても効果は異ならない。クレーの作品の小ささは、大きな作品の場合より、妖精のようなファンタジーのなかに入ることができる。」

  ヘンリー・ムアは、ここで芸術家の資質の二つの型を挙げていて、興味ある指摘でありますが、モニュマン性について、どういう性格であるかを直観的に語っているだけです。手詐にある2、3の辞典を見ても、ぼくから見ると滑稽であったり、月並みの説明でしかありません。だが、宇部市常盤公園、現代彫刻展が現代のさまざまな新しい材料を使用した現代彫刻の展開の後で、今回、この彫刻の本質としてのコンポジション(構築)に関する重要な問題であるモニュマン性を課題としたことの意味は重要だと思います。もっとも、この彫刻の本質としてのコンポジションといっても、一定の約束があるわけでなく、さまざまな形態を示すことはいうまでもないことです。