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〈特別展〉向井良吉・柳原義達
野外彫刻40周年記念特別展「向井良吉・柳原義達」展に寄せて

著者名:三木 多聞

   今回の「現代日本彫刻展」が野外彫刻40周年に当たるのを記念して、特別展「向井良吉・柳原義達」展が開催される。野外に彫刻を展示する試みとしては、1951年小野田セメントと提携して、日比谷公園で「野外創作彫刻展」が開かれたのをはじめ、日比谷公園や北の丸公園でしばしば展覧会が開かれた。しかし野外彫刻の推移を考えると、当時はそれほど明確に意識されていたわけではないけれども、1950年来日したイサム・ノグチが個展を開き、彫刻と社会との連係の必要性を強調したり、51年に広島で橋の造形を示したことに先駆的な意味があった。また神奈川県立近代美術館の「集団58野外彫刻展」は彫刻の具体的な場についての積極的な提案を試み、やがて盛んになる野外彫刻の契機となったことが記憶される。

  1960年代になると、彫刻は従来の絵画に従属する立場を離れ、それ自体の動きがにわかに活発になってきた。作家の自主的な選択で1960年に結成された「集団現代彫刻」、61年宇部市常盤公園の「宇部市野外彫刻展」、63年神奈川県真鶴海岸で行われた石彫による「世界近代彫刻日本シンポジウム」、国立近代美術館の「彫刻の新世代」展、宇部市の常盤公園の「全国彫刻コンクール応募展」などが主な動きであった。これらのうち宇部市のコンクール展が、人口約15万人の小都市で開催されたことについては、環境浄化運動が街を彫刻で飾ろうという事情や、新しい都市づくりの意味もあったが、野外における現代彫刻についての関心を一般にひろげた。これを発展させて宇部市で1965年からビエンナーレ展形式で野外彫刻による「現代日本彫刻展」を開催し、今日に至っていることについては、強力なイニシアティブを発揮した土方定一氏をはじめ、星出市長、岩城次郎氏、上田芳江女史、大高正人氏、宇部興産、彫刻家向井良吉氏、柳原義達氏、堀内正和氏ら、関係された多くの方々の叡智と御努力に支えられたことはいうまでもない。この「現代日本彫刻展」が刺激となって68年から神戸須磨離宮公園でやはりビエンナーレ展形式の野外彫刻による「現代彫刻展」が開催され、69年箱根彫刻の森美術館が開館し、野外彫刻展の機運が急速に高まった。

  このことにはヘンリー・ムアの「野外におかれた彫刻は、美術館の屋内に展示されたときとは別の特別な意味をもっているものです。屋内の場合には、美術館などは実生活とは関わりのないものだという、一種のアカデミックな考え方に捉われがちですが、ひとたび野外に出て陽を浴び、雨に打たれ、雲の移りゆきを感じるときには、彫刻も生活の一部であるということが、よくわかるのではないかと思われます」というメッセージに裏付けられ、一時的な展覧会としてではなく、彫刻と都市との結びつきを進める動きを促進し、都市計画のなかに彫刻を積極的にとり入れていこうとする動きが、長野市、旭川市、横浜市、仙台市などで具体化し、現代社会において、彫刻の果たすべき役割が具体的に問われるようになった。「現代日本彫刻展」は一方では公共的な野外空間との対応、他方ではテクノロジーの発達に伴う新しい素材と技法の開発によって、彫刻ないし立体造形の表現領域の拡大に、それまでなかったほどの大きな変化をもたらした。

 
  今回で第19回を迎える「現代日本彫刻展」が現代彫刻展として通算40周年に当たるのを記念して、特別企画として〈特別展〉向井良吉・柳原義達展を開催するのは大きな意義がある。

   向井良吉と柳原義達、二人の彫刻家は、向井は抽象彫刻、柳原は具象表現と、作風の上では異なっているけれども、ともに現代日本の彫刻に大きな変革をもたらし、強い影響を与えた代表的な存在であると同時に、宇部の現代彫刻展が実現するのに大きな推進力として重要な役割を果たした。

 
   たとえば向井はブルドーザーを使って、常盤公園に彫刻の展示場を作ったが、宇部市が国際身体障害者年などといわれるずっと以前から身体障害者に働く場を与えていることに共感し、身体障害者の力も借りながら、宇部興産が提供した屑鉄を熔接して常盤公園に「蟻の城」を制作した。そこでは役に立たなくなった部品をもう一度役立たせようという人間の原点としての愛情が流れていた。

  向井は1918年京都に生まれ、太平洋戦争のはじまった41年に東京美術学校を卒業し、戦時中新制作派展に出品したが、戦後47年に晨生会というグループをつくり、やがて50年に行動美術協会に彫刻部を新設し、表現主義的抽象彫刻の有力な拠点となった。49年渡欧し、翌年神奈川県立近代美術館の「今日の新人」展に「プラスチックのオブジェ」、行動美術展に「アフリカの木」を出品して大いに注目された。それらは内部のつまっていない空の空間(虚の空間)を積極的に導入し、木やプラスチックなどの素材とかかわりあいながら、複雑な有機的な形態に、それまでなかった心理的な表現を示した。またパラフィン系の蝋型原型から新しく工夫した合金を使って直接鋳造する技法を開発し、「発掘された言葉」などを発表、サンパウロ・ビエンナーレ展に出品した。61年高村光太郎賞、ヴェネツィア・ビエンナーレ展に出品した「蟻の城」に発展した。パラフィン系の蝋型鋳造は粘土による塑造はもちろん、熔接でも得られないような複雑な形態を獲得し、空間に伸展する特異な形態は、シャープな現代感覚を繊細に表現した。さまざまな素材を駆使しながら、有機的抽象の多彩な表現に積極的にとり組んだ向井は、東京文化会館の壁面、新宿紀伊國屋ホールの壁面、舞台装置などに巾広く活躍している。長野市野外彫刻賞、インド・トリエンナーレなど国際展などにも出品し、武蔵野美術大学で後進の指導にも当たった。世田谷美術館で個展を開いた。

   柳原義達は1910年神戸市に生まれ、東京美術学校在学中から国画会彫刻部に出品し1936年卒業し、翌年同人となったが、39年他の同人とともに脱退、新制作派協会に合流して彫刻部を創立、会員となる。戦後「犬の唄」など柔軟な感受性とすぐれた表現力による清新な作風で注目され、51年サンパウロ・ビエンナーレ展に出品した。52年フランスに渡り、オリコストらに学んで57年に帰国したが、滞在中「量は重さとしてではなく、緊張感として解釈しなければならない」と強く実感し、「黒人の女」「赤毛の女」を日本国際美術展に出品し、「バルザックのモデルたりし男」などとともに、従来の写実的な表現に疑問を感じ、量塊の構築を基本とするオーソドックスな彫刻の概念の変化が意識され、新しい具象表現を志向する動きに強い影響を与えた。57年に新設された第1回高村光太郎賞を受賞、大胆にデフォルメした「靴下をはく女」「犬の唄」などで現代日本美術展で優秀賞を受賞し、ヴェネツィア・ビエンナーレ展に出品した。1963年新制作協会を退会したころから人体のほか、鴉や鳩をテーマに「道標」シリーズを制作し続けているが、小動物による素朴で強い生命感を表出している。66年パリの国際彫刻展、67年アントワープのミデルハイム国際野外彫刻展に出品した。神戸須磨離宮公園の現代彫刻展で「道標」が受賞、長野市野外彫刻賞を受賞し、「道標・鳩」が中原悌二郎賞を受賞し、東京新都庁舎の都民広場に「犬の唄」を設置した。なが年日本大学芸術学部で後進を指導し、文化功労者をうけ、世田谷美術館で個展が開かれた。

 
  向井良吉・柳原義達、二人の彫刻家の軌跡を見ると、現代日本彫刻がたどった過程をうかがうことが出来る。

(美術評論家)