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ときわミュージアム UBE Tokiwa Museum 緑と花と彫刻の博物館

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『宇部の彫刻』
宇部の野外彫刻30年の歩み

著者名:弦田 平八郎

 自由で澄刺とした野外空間のなかに彫刻が解放され、わが国の現代彫刻が大衆の前に大きく姿を現わしたのは1961年7月のことであった。

 グループ集団60を主とした16人の作家による59点の作品で、「宇部市野外彫刻展」として、宇部市の常盤公園に出現したのである。この出現が、敗戦後に立ち遅れていたわが国彫刻界に、清新の気を吹き込んだのである。

 そのころ、絵画にくらべてとかく静かな彫刻界に一石も二石も投じ、彫刻そのものや彫刻界全体に、強い刺激と多様な進展を与えるのに大きな役割を担ったのは、次のようなことであったように思われる。

 その第一は、彫刻が戸外に解放され、それまでの、手許に置いて個人が観賞するのとはちがう彫刻の在り方に強い関心の眼を向けさせる、という画期的な意義をもたらしたことである。2年後に、世界近代彫刻日本シンボジウムが神奈川県真鶴の道無海岸の炎天下で開かれたのも、これが刺激となったことは否めないだろう。

 そしていま一つは、宇部市の野外彫刻展もまた、この年から「全国彫刻コンクール応募展」として、招待制だけではなく一般公募も併せて開催することになったことである。このときは95名122点の応募があり、当時としては予想をはるかに上回る出品で、全国から集った新人作家のエネルギーを一気に爆発させたようなコンクール展となったのである。

 さらにここでは、既存の美術団体に束縛されていた伜が取り払われ、団体にとらわれることなく、思いのままに制作したのを出品したのが特微的であったといってよい。また当時のカタログには、「彫刻は本来野外の彫刻であって、太陽の光線が必要である......わたしの彫刻は、わたしの知っている一番うるわしい建物のなかより、どんな風景でもいいから、風景のなかに置かれてほしい」というヘンリー・ムアの、彫刻の本質をつく言葉が引用されている。日本美術館企画協議会の土方定一会長が、「全国彫刻コンクール応募展」の開催理由と経過を述べているなかであるが、そこにはさらに、「恐らく、参加作家は、この自然的環境のなかで、あらためて野外に置かれた彫刻の本質を反省し、彫刻のもつ自然的、精神的環境について反省せざるを得なかったにちがいない。現代彫刻の新しい実験と前進のための第一歩がここにはじまった、といっても誇張ではなかろう」といっている。

 当時の彫刻に、新たな展開の可能性を強く印象づけたのはこのコンクール応募展であったといってよい。他に先がけて、本州の西端、小さな一地方都市、山口県宇部市からはじまったのである。

 これには、次のような経緯があった。

 むかしから石炭を掘りついで発展してきた宇部市は、第二次世界大戦終結の直前、アメリカの空襲で市街地のほとんどを焼失してしまった。しかし、その後の宇部市の復興計画は、他の都市よりはるかに早く、しかもまったく大胆なものであった。敗戦の年1945年11月、当時の常識としては考えも及ばない、路幅50mの主要道路を造る都市再建に着手し、衣食住欠乏の混乱期に市民の反感を買いながらも完成させたのであった。後年この道路が都市計画に役立ったことはいうまでもない。

 さらに51年には、これら道路に街路樹植栽をしはじめ、やがて市民の共感を呼び起こして市民ぐるみの緑化運動、花いっぱい運動へ展開させて55年に整備完了、58年には花壇コンクールヘと発展させるなど、早期に目覚ましい復興をなしたのであった。

 この都市再建計画をすすめたのは、宇部市の故星出寿雄市長、故岩城次郎市立図書館長、当時女性問題対策審議会長、現緑化運動推進委員会理事長上田芳江女史らが中心となっていたが、このころさらに、「文化の香り高い豊かな町づくり」を念願していた宇部市は、岩城図書館長の学校の先輩である土方会長に協力を求めたのであった。すぐれた行政家星出市長、知性豊かな岩城図書館長、情熱家上田女史と土方会長との出会いが、緑と花の町に彫刻を結びつける「彫刻都市宇部」の基本構想をまとめさせ、やがて手はじめとして、わが国はじめての大規模な野外彫刻展をこの小都市において出現させようとしたのである。

 建築家大高正人、彫刻家柳原義達、向井良吉の3氏もスタッフに加わり、宇部市彫刻運営委員となり、まず、広大な宇部市常盤公園を委員たちみずからブルドーザーで整地しながら、16人の彫刻家に呼びかけ、59点の出品をみたのが冒頭に述べた野外彫刻展であったという訳である。

 ところで、彫刻を野外に解放し、自由にのびのびとさせたこの「宇部市野外彫刻展」は、前述のように「全国彫刻コンクール応募展」となった後、さらに2年後の1965年からは「現代日本彫刻展」となって、現代彫刻がもつ社会的機能を重視していくことになるが、そこには、「二十世紀の近代彫刻がアトリエのなかの実験に従っているうちに忘れていた彫刻の社会性を回復しようとしていることが、つぎに大切なことだ。これは建築家、彫刻家、画家が協働して、われわれの生活空間を合理的に美わしくしようということである」(土方定一「朝日新聞」1958年1月27日付)とする追究が基本にあって、回を重ねていったといってよい。

 「現代日本彫刻展」の第1回展から第4回展までは招待作家のみによって構成され、第5回展からはコンクール部門も加え、招待制とコンクール制の2本立てをもって現在に至るが、1969年の第3回展からは、毎回テーマを設けての開催となっていて、現代彫刻が現代社会と対応する、時代の、現代的発言を求めることになる。

 第3回展(69年)では、「三つの素材による現代彫刻-ステンレス・アルミニウム・プラスチックス-」であり、第4回展(71年)では、「材料と彫刻-強化プラスチックスによる-」である。その後は、戦前には一般化しなかった、あるいは戦後の近代工業技術が開発した現代の新素材、鉄、真鍮、アルミニウム、ステンレス・スティール、セメント、プラスティックス、強化プラスティックス、ガラスなどの現代の素材によって彫刻家の想像力を呼び起こし、現代彫刻の多様な可能性を追究している。

 これには、これらの材料を扱っている日本で有数な企業体が協カし、現代彫刻がコミュニティ(共同社会)の理想のなかに共働することをさらに深めていく契機となっている。産学協同などという言葉が流行ったのはこのころであったろう。このような現代的表現の新しい可能性を追究することがあって、彫刻の新展開をうながしたのである。

 これは何も、素材だけのことではない。土方定一委員長亡きあとの現代日本彫刻展運営委員会河北倫明委員長は、さらに、「素材の変化にともなう発想内容の変化がさらに重要である」といったうえで、「図式化していえば工業化時代の思考と感覚が現代彫刻の背景を激しく揺ったわけで、このあたりから新しい素材と思考にふさわしい抽象彫刻が野外彫刻の主流の座を占めていく経過がうかがわれよう。ちょうど70年は大阪万国博の年に当ったから、高度経済成長の決算期にも当って、抽象的野外彫刻の在りようがいっそうひろく一般化したことになる」といっている。

 さらに第5回展(73年)では、「形と色」、第6回展(75年)では、「彫刻のモニュマン性」、第7回展(77年)では、「現代彫刻の抽象と具象と」とによって現代彫刻の基本的な在り方、社会的機能を探る意図をみせてきたのである。現代彫刻が置かれる都市の性格を考えるとともに、変革期にある都市空間に応じて、現代彫刻の機能がもっさまざまな可能性の追究、彫刻的、社会的機能をどのように示すかなど、現代彫刻が共同社会の理想のなかに共通する契機を深めてきたのである。

 しかし、ここで注目したいのは、その動きが、わが国の公害問題の歩みとほぽ同じに進められたということである。つまり、1955年の神武景気以来、わが国経済が急速に勢いをつけ、68年には日本の生産力が西ドイツを越して経済大国にのしあがっているが、その高度成長政策のかげに水俣病、四日市ぜんそくなどを生みつつあった自然汚染の進展とほぽ同じであったということである。

 痛ましいことだが、きれいな水を、緑地を、という声が一般に出はじめたころ、社会開発を軽視する産業開発優先への批判が一部に起こりはじめた1950年代後半のころ、宇部では現代彫刻に対する具体的な動きが、さらに活発化しはじめたことである。宇部市が市民と一体となって、1958年に花壇コンクールをひらくことにしたのは前に述べたが、この同じ年に、花いっばい運動を推進していた婦人団体が、花を檀えた残金で、小さな彫刻、小さな裸婦像を買ったのは暗示的である。緑と花の街角に、ごく自然に彫刻を置きたい気持ちになったのだという。

 一方、世間一般では、企業や市民社会の私的利害を優先させる高度成長政策が、公害に目をつぶりながら熱病のようにつづけられたことは、まだ記憶に生々しい。自然破壊が加速度的に早まり、代わりに、高速道路が一方的に造られ、システム技術の開発によって単純化、画一化された、われわれに何の連想も与えない、うっとうしいだけの景観がつくられていったのである。しかも、都市の包括的再開発一辺倒のため、近隣の社会生活は蔑ろにされ、人間疎外の感が深まり広がっていったのである。

 その時期に宇部の野外彫刻展は、ちょうどこれらの進行とにらみ合わせるかのように、その間、さまざまの意欲的な実験を繰りひろげながら、現代彫刻が、うっとうしくてやりきれない思いの都市や人間疎外の社会生活を、いかに蘇生させるか、いい都市空間が社会生活にいかに精神性豊かなものを加えるか、と訴えつづけてきたかのような感があったのである。都市がうっとうしくなればなるほど、現代彫刻の新たな社会的機能を探るものとして、環境と彫刻、都市空間と彫刻といったように、それらの関わり合いが大衆の視野のなかで、強く追究されてきたといってよい。

 第8回展(79年)の「彫刻のなかのポエジー」は、彫刻としての本質をいま一度見直そうとするこれらの追究に、いっそうの生気を加味しようとする願いをもったものであったといいたい。とすると、第9回展(81年)の「緑の町と彫刻」は、さらに現実的な生活空間のなかの状況、身近なひとびとと関わりのある社会的な場における彫刻の意義を改めて見直そうとするものであったといってよい。

 この第9回展の81年は、宇部においてはじまった最初の野外彫刻展から数えて、ちょうど20年にあたっていること、またこの年が宇部市制60周年に重なっていることから、「21世紀の都市デザインを考える全国シンポジウム・ひろばと緑と彫刻と」というのを全国に先駆けて宇部市の文化会館で開催している。全国に先駆けてというのは、建築あるいは都市計画といったシンポジウムはいままでにもあったが、人間心情の造形的所産である彫刻を街なかに置くことによって、さらにわれわれの生活空間を美しくし、都市に人間性を回復させようとする、もっと広い立場でのシンポジウムは、はじめてのことであったからである。

 このシンポジウムは、宇部市と毎日新聞社との共催、さらに建設省、自治省、文化庁、山口県等の後援、宇部興産株式会社の協力によっておこなわれたが、テーマが地方都市の新たな魅力ある課題であっただけに、北海道から沖縄までの自治体や民間、建築、都市工学、都市プラン、公園、環境緑地、デザイン、美術、彫刻などの各関係者約500名の出席があり、各関係者に、このことの重要性を改めて知らしめたことは、シンポジウム会場の緊迫した雰囲気からよく察せられたのである。

 「ひろばと緑と彫刻と」という「21世紀の都市デザインを考える全国シンポジウム」が示すように、野外彫刻の問題点が浮き彫りにされてきたといってよい。その点宇部市は、現実的な生活空間における彫刻、もっとひとびとと関わる彫刻を追究し、彫刻の本来的な根本の在り方を問うていっている。このあたりから、社会生活を根本から考えるアーバン・デザインにもとづく都市再計画が各地で見直されるようになっている。各地に彫刻のある街づくりが進められているのもみることができる。1983年の第10回展から、テーマが「人間讃歌」、第11回展が「風土と彫刻」(85年)、第12回展が「太陽讃歌」(87年)、第13回展が「光と大地」(89年)となっていったのは、従来の野外彫刻に、もっと何かを求める渇望があったからかもしれない。宇部は、多くの試練を早くから体験しながら、他の都市に先がけて、都市環境のなかの彫刻が果たす役割の重要性を考え、実践してきたといってよい。

 しかし時代は、むかしとちがって刻一刻と新しい豊かな社会生活を志向して動いている。それだけに都市のなかにおける彫刻、都市のなかのすぐれた彫刻がもたらす社会的機能、そしてそれを媒体としてその地域に住む市民たちの精神性豊かな高まり、ありとあらゆることがよい方向に相乗作用する街づくりが大切なのである。

 現代の彫刻は、彫刻素材の幅を大きくひろげ、それらによって、対象を写実的に再現する戦前のいき方をはなれた、現代彫刻の志向するさまざまの彫刻が、具象的傾向であれ抽象的傾向であれ、作家の精神的刻印を刻んだ多様な表現の内容を豊富にみせている。それだけに宇部市の街なかで見られる彫刻たちは、こころゆたかに多くのことを語りかけてくれる。

 自然と彫刻との調和や新たな都市づくりを追究して、その都度、時代時代の記録的な彫刻として充実させてきた宇部の野外彫刻展は、1991年、第14回展を迎えたが、この年はちょうど、野外彫刻30周年、宇部市制施行70周年にあたることから、そのめでたさを讃える意昧合いをこめて、テーマは「宇部讃歌」とされたのである。会場は、従来のものに、さらに湖側に新しい地域を加えて広々とさせるとともに、コンクールで選ばれた作家の数を10人から15人に増やし、従来と同じ数の招待作家10人を加えた25人による作品の展示となっている。

 第15回展(93年)のテーマは「翔(はばたく)」である。

 また、宇部野外彫刻の30年間は、初代の星出寿雄市長にはじまり、星出市長亡きあとは西田竹一市長に、西田市長亡きあと新田圭二市長に、新田市長退職のあとには二木秀夫市長に、二木市長退職のあとには現中村勝人市長に受けつがれていることによって、充実さを増してきたのである。

 その間、最初のころコンクール出品が実物大で出品されていたのに対し、作家の経済的負担を少しでも軽くして活発な活動ができるようにとの配慮から、コンクール応募は、模型でするとか、入選者に制作補助費を出す、ときには材料を提供するなど、作家の便宜をはかってきている。

 さらにまた、この野外彫刻展には、第1回から地元の有力な大企業、宇部興産株式会社の理解ある協力があって、市と地元企業との好ましい関係が力となって、現代彫刻を大きく進展させたといってよい。最初のころ、現物大の作品を宇部に運ぶとき、石炭を東京に運んだその帰りの宇部興産の船に積んで搬入させてもらったなどというエピソードもある。

 1987年の第12回展からは、テレビ山口株式会社に協讃をいただいて、現代彫刻の紹介に骨折ってもらっている。