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ときわミュージアム UBE Tokiwa Museum 緑と花と彫刻の博物館

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チャドウィック・アーミテージ彫刻展
ケネス・アーミテージ じゃが芋と割著の彫刻

著者名:土方 定一


  友人、向井良吉君は、アーミテージの作品を見てからの印象を、じゃが芋に割箸をさしたような、いい彫刻、とぼくに話してくれたことがある。アーミテージの彫刻には屏風のような平面彫刻、とそうではない、じゃが芋然とした、ずんぐりした量塊彫刻との2つの系列があるが、この後者の系列についての適切きわまりない印象のように、そのとき、ぼくは聞いたことがある。この後者の系列の作品は、たとえば、「ずんぐりした人」(1955年)、「2人の歩哨」(1955-56年)、「横たわる人」(1957年)の5点のシリーズ、「手を挙げて腰かけている人」(1957年)などの作品である。どうして適切きわまりない印象だと思ったかといえば、ぼくはその後、アーミテージの巡回展をロッテルダムのボイマンス・ファン・ブーニンゲン美術館で見たとき、向井良吉君の言葉を思いだして、ふきだしたからである。
  恐らく、これらの作品を見られたならば、ぼくと同じようにふきだされると思うが、アーミテージ自身が「ずんぐりした人」という題名を作品のひとつにつけているように、じゃが芋然とずんぐりしており、無格好に充実している胴体をしている。そして、その胴体のとんでもないところから「ずんぐりした人」のように手足4本をえろえて出している、割箸をさしたように、盆になると、われわれの家庭で、死者を迎えにやるために、茄子に4本の割箸をつきさして冥界に行くことのできる馬をつくる。アーミテージのじゃが芋に割箸をさした彫刻は、アーミテージの世界のなかのなんであろうか。
  日本人のわれわれが、じゃが芋に割箸をさしたような彫刻と思うように――イギリス人にはこんな日本的で適切な言葉はとうてい浮んでこない――アーミテージの彫刻はずんぐりしていて醜く、じゃが芋のように充実した喜びのなかで、割箸がさされているので、生活感のにじんだ機知とユーモアを示している。ここには、アーミテージ、チャドウィック、レッグ・バトラーの前に巍然と聳えているへンリー・モアの彫刻の倫理的で神話的な姿勢も見られなければ、チャドウィックのような悲劇的な相貌も見られない。アーミテージが「よろこびと陽気さの心のもちのなかで作られる」作品が好きだといっているように、アーミテージの作品は、ロンドンという都会の周囲の人間に対する人間的で直かに愛情のあるアプローチから生れている。
  ローランド・ペンローズは、アーミテージのアトリエの外の世界とアーミテージとの関係を次のように語っている。アーミテージは静かな住宅地域とテッディ・ボーイとごろつきの巣に狭まれたロンドンの質素な町に住んでいる。するどい観察でアーミテージは周囲の都会の生活を見つめ、そのほんとうの姿を知ろうとして、つまらぬ附属物を剥ぎとろうとする。そこから、アーミテージの作品の造型的な性格がいろいろに生れてきている、と。次に、アラン・ボーネスに従って、アトリエのなかに入ってみよう。アトリエのなかは書籍と雑誌、椅子、ベットと屏風、電話、ひとやまの子供の玩具、そのなかに大きな戦車があるのがわかる。壁は古いポスターや新聞から切りぬいた写真――街の不良少年の写真がギリシァのアルカイック彫刻の写真と並んで、また渚で踊っている女と戦争で破壊された建物の空中写真とが並んで貼りつけられている。こういったものが、アーミテージのアトリエのオブジェで、なかにはアーミテージの彫刻との関係が想像されるものもある。たとえば、堅牢な四角形、水平に突きでている砲身をもった戦車の玩具は、アトリエの別の方に置いてあるアーミテージの彫刻のあるものと形が似ている。空中写真は破壊されて屋根のないままで、いまでも残っている壁のつくる格子模様のパターンを現わしているが、これは、アーミテージがクレーフェルト(ドイツ)のためにつくった戦争記念碑のなかの人間の胸のところに象徴的な痕跡として附けられている。が、それらよりも、もっと重要な形のうえの意味をもっているのは、ひとつの屏風といっていい。遇に頭のような支柱を突きだしている6フィートの高さの3つのパネルをもつこの屏風で、アーミテージの彫刻の視覚的なメタフォア(暗喩)になってくる。ひとつのパネルはひとりの人物、全体の屏風は結合された幾人かの人物となってくる、と。
  じゃが芋に割箸を突きさした、ずんぐりした、アーミテージの彫刻から、ここでアーミテージの平面彫刻に向わねばならない。また、アーミテージの戦後の新しい彫刻は「散歩に行く家族」(1951年)、「風のなかの人々」(1951年)、「腰かけて音楽を聞いている人々」(1952年)、から近作の「両頭政治」(1957年)、「三頭政治」(1958-60年)にいたるまでの主要な性格となっている。
  ケネス・アーミテージは1916年、ヨークシャイアーの工業都市リーズで生れている。ここは先輩、へンリー・モアやバーバラ・へップウァースの生れたところで、はじめにリーズ美術学校で彫刻を学び、次にロンドンのスレード美術学校で、1937年から39年まで彫刻を学んでいる。だが卒業と同時に徴兵され、6年半の兵役につくことになっている。このころ、アーミテージは、近代彫刻のなかでブランクーシによってはじめられ、イギリスではへンリー・モアのような後継者をもって直彫りが「材料に忠実な」、「ほんとうの彫刻」と信んじ、自らも直彫り彫刻の信条のなかにいた。この信条は、たしかに、このとき、これまでの彫刻のなかの材料の器用な模倣にすぎないものに対するプロテストであったろうし、また木なり石なりの材料を直彫りすることは、へンリー・モアがいっているように、材料に彫刻家として積極的に参加することであり、その結果、彫刻家のイデーの構築に材料が参加することになるという信条であった(へンリー・モア、「彫刻家の目的」、1934年)。ところが、1946年に兵役から解放され、コルシャムに新設された新しい美術学校の教授としてコルシャムの大きなアトリエのなかに立ったとき、直彫りするという考えがすっかり無くなっている自分を見なければならなかった。6年半という良い期間、兵役に従っているうちに、アーミテージのなかの戦争の経験が1938年につくられた「少女像」のような写実主義的な彫刻から離れてしまって、人間像の背後にあるイデーに眼が向けられてしまったことであるにちがいない。そして、同じように直彫りといっても、アーミテージの直彫りによっては、却って自己の彫刻的経験の再生になることに対する嫌悪であったろうと、ぼくは想像する。そして、このアーミテージのなかの新しい彫刻についての考えとイデーは現代建築や、そのときアーミテージに深い印象を与えたブリストル、クリフトンのアヴォン・ゴルジの渓谷にかけられたブルネルの壮大な吊橋、橋塔、工場建築、兵器また戦車のように充実しながら働く構造をもつべきであった。構造についての新しい考えは、すでに述べたチャドウィックでも、またレッグ・バトラーでも、同じように持っているものである。が、そのアプローチの仕方、その結果は、当然のことであるが、それぞれ全く異っている。そして、チャドウィック、バトラーの建築家としての経験が抽象的な彫刻的構築から自己のなかに、そのときどきに浮んできたイデーを展開しているが、彫刻家としての訓練をうけたアーミテージの場合は、いつも人間の形の刺激を必要とし、それを通して自己の映像を彫刻とすることになっている。棒鉄によって基礎的な構造を組み立て、石膏で肉づけし、その後でブロンズにする仕方のアーミテージの彫刻の世界である。
  アーミテージの戦後の最初の時期の作品「腰かけて音楽を聞いている人々」(1952年)を、ここで見よう。3つのパネルをもつ屏風のような平面の彫刻で、屏風が立っているように左右のパネルが横に開いていて、中央のパネルが正面になっている。その角のうえに2つの瘤のような頭がつけられ、他のところに2つの頭がつけられている。4人の人間が音楽を腰かけて聞いている。屏風の平面の面のなかから唐突に昆虫の手のような手が突きでていて、左のパネルの手は上に平行してあげられ、次は2つの手が合わされ、次は平行して下げられて、次は斜めに平行してのびている。腰かけている足は9本あって、これも昆虫の脚のように不格好である。だが、この屏風のような3つの平面のなかで結合されている「腰かけて音楽を聞いている人々」の印象は、醜く不格好であるだけ、それだけ生命のエネルギーに溢れた烈しい感動を与え、屏風といったものでなく、断崖のような全体の形、頭から下への垂直、平面につけられた水平の皺線、斜めにつけられた手のすべてが力強くわれわれに与える効きの韻律は、直接的で愉しい。アーミテージの彫刻的な内部構造とそのぶさいくな人間たちがつくる世界。「散歩している友人」(1952年)など、同時期の同じ系列の作品である。
  「腰かけて音楽を聞いている人々」が、どちらかといえば、水平に主調が置かれているとすれば、たとえば、「立っている人々」(1952-54年)は、垂直の構成となっている。ここでは、いわば、アーミテージの屏風の3つのパネルは中央のパネルが左右のパネルを結びあわせて、ペンローズがいうように、よく構築された塔のような印象を与える。
  また、近作の「両頭政治」(1957年)、「三頭政治」(1958-60年)となると、静かな建築的調和のなかに結合されたアーミテージの2人、あるいは3人像を見ることになる。この彫刻の思想は個人をひとつの力強い永久的な構造のなかに結合することを発見した社会の姿を現わしたということで、下の方はこれまた昆虫のようないくつかの足がアーケードのように突きでていて、そのうえに支柱のような手がつき、2人、あるいは3人の像を結合している正面は街なかに高く聳えている数階の建物を思わせ、その正面につけられている水平の敏線はやわらかな腹部を暗示し、上部のところどころにつけられている乳房のようなものは母性の記号を暗示し、そのうえに長い頸が、これまた水平の皺線を繊細につけられて頭部となり、油断なく周囲を見張っている、と。ぼくは、はじめてこの彫刻を見たとき、こういう思想について予想することはできなかったが、単純な建築的構築をもったこの人間像のアーミテージ的な結合は、ユーモアをもちながら、われわれを監視している壮大な記念像のような感動をうけ、こういう彫刻が野外のなかに置かれて、それが支配する空間と、空間のかもしだす幻想的な雰囲気について、あれこれ、想像しないわけにはゆかなかった。
  それでは、アーミテージの人間像の世界は、どういう人間像であろうか。アーミテージが彫刻家としての経験から、そしてまたアーミテージの本質から人間の形の刺激を通して、いつも自己の世界を彫刻的に構築することは、もう語るまでもない。そして、その人間はアーミテージがよろこんで住んでいるロンドンという都会の人々が日々演んじている日常生活のなかの人間であり、それらの人間の姿がアーミテージの詩の生まの材料であることは疑いない。が、それはァーミテージの彫刻の世界のなかで、「ずんぐりした人」の系列のように、じゃが芋に割箸をさしたような不格好で充実した人間像となり、「腰かけて音楽を聞いている人々」のように屏風のような平面の3つのパネルから昆虫のような手や足を出して、瘤のような頭をつけている。アーミテージのなかの戦争の経験が、人間のすべて外貌に対する興味を喪失させたこと、それが少女であれ、夫人であれまたそれがどのような社会的、生理的な外貌をもっているにしても、人間のすべての外貌についての興味を喪失させたこと、そして、その背後にある、戦争のなかのすべての人間のように共通した人間的条件がアーミテージの興味となったことが、ぼくには重要のように思われる。そして、彫刻の世界でいえば、その外貌を内部から彫刻的に量塊として構築する写実主義的彫刻に対する興味もまた、それにつれて喪失してしまって、自己のなかの人間像に新しい構造を与えることであったにちがいない。それは、アーミテージの場合に、ずんぐりした醜い胴体、屏風のように平面な胴体と、骨と皮ばかりの昆虫のような手足をもちながら、内部的に新しい構造をもつ人間像になってしまった。人間の外貌の虚妄の否定であるが、アーミテージの人間に対するアプローチは、ペンローズやアラン・ボーネスがいうように、「その醜さを見て微笑し、そのはげしさを喜び、人間的建築のモニュメンタルな感激は驚くように、われわれを招待している。アーミテージの彫刻の人間の形はわれわれにとって生命の家である」(ペンローズ)ところに、この戦後の彫刻家の世界があるといわねばならない。